好きな風景が日常になるくらし

JR尾道駅の北側、「斜面地」と呼ばれる、いわゆる尾道らしい細い坂道の中腹にその小さなお店はある。古民家を改修した6畳ほどのこの店「Marton(マートン)」の周辺からは尾道水道を見ることもできる。

Martonを経営するのは、名古屋出身のIターン移住者、早川さんだ。
彼女は6年前、ここにテディベアのお店Martonをオープンさせた。現在では、県内はもちろん、中国地方、四国地方、近畿地方からも常連客が訪れる有名店として知られている。

早川さんは地元名古屋でデザイン学校を卒業後、玩具メーカーに勤務していた。
彼女とテディベアの出会いは、その玩具メーカーで働いていた時。洗えるぬいぐるみの開発に携わり、その時にテディベアを企画して資料を集めたのがきっかけとなった。その魅力にどっぷりハマり、特にイギリスやドイツの素朴なテディベアに取りつかれたという。

先輩から型紙もらって作るようになり、デザイナーだった彼女はオリジナルの型を作るようになる。自分の作品が賞をとったのをきっかけに、ブランド名をつけて活動するようになったそうだ。この頃からいつか自分のお店を持てたらと考え始めた。
名古屋から尾道、彼女はどのようにして尾道を選んで「自分の夢」を実現するに至ったのだろうか?

この街を愛する尾道人が私を呼び寄せた

早川さんと尾道の出会いは社会人になりたての頃に遡る。
映画ファンの友人と2人で映画のロケ地を巡る観光に訪れた。あいにく2日目は雨が降り、どこに行こうか悩んでいたところ、通りすがりのおじさんに浄土寺を勧められた。ここまではよくある話だが、ここからのおじさんの行動が忘れられないものに。

おじさんは一緒にバスに乗り込み、頼んでもいないのにガイドをしてくれて、最後には喫茶店でワッフルをご馳走してくれたのだとか。
別の機会に友人6人と訪れた時も、雨の中で信号待ちをしていたら、通りかかったご夫婦に
「どこから来たん。せっかく来てくれたのにこんな雨でごめんね。」
そう声をかけられ、お菓子を手渡されたそうだ。

このような体験が彼女にとって尾道を特別な場所にしていったようだ。
「尾道には、尾道が好きな人が多いんだな、と思って。そこから尾道に住む人も尾道ももっと好きになったんです。」

それから10年ほどは、地元名古屋で仕事やテディベアの制作、趣味の演劇に没頭していた。
そんな時、少し疲れて気落ちしてしまったことがあり、寺巡りして癒されよう、と再び尾道に足を運んだそうだ。
その際に斜面地の空き家で、東京や岐阜から移住して暮らしている人たちに出会ったことが、大きなターニングポイントに。
「彼らの頑張っている話を聞くうち、自分のやりたかったことを思い出したんです。ああ、私、お店開きたかったんだ!って。」
こうして彼女のお店を持ちたい気持ちは再燃した。

「空き家バンク」との出会い

早川さんは名古屋に帰ると、さっそくお店を開く準備に取り掛かる。
当然、最初は名古屋の実家でお店を開く、という選択肢もあったようだが、「好きな場所でお店をもちたい」という思いから、尾道へ移住することも決断したのだとか。2年かけて念入りに準備を行い、働いていた会社にもついに尾道へ移ることを伝えた。
「幸運にも円満退職できて。お店開くんですと伝えると、『テディベアの良さを伝えるために、ぜひ頑張って』と応援してくださって。」

彼女が移住した当時は、まだ空き家を紹介してくれる仕組み、「空き家バンク」が立ち上がっておらず、家探しは苦労したという。結局、良い物件が見つからず、最初は民間の賃貸アパートに住んだ。
「当時は尾道に住んでいないと移住するのか半信半疑に思われていました。だから尾道に住みながら物件を探すことにしたんです。」
実際に住み始めたところで移住の本気度が地元の人々にも伝わり、その後間も無くできた、NPO法人の空き家バンクを介して、現在の物件に出会うことに。

「地元の人ですか?」と訊かれるように

尾道へ移住して良かったことを彼女に聴いてみると、少し考え込んでからこう答えてくれた。
「目の前は尾道水道、振り返れば千光寺、そんな風景を見て、ああ、私って尾道に住んでるなぁと感じる瞬間でしょうか。」
最近では、困っている観光客を見ると声をかけることもあるようで、「地元の人ですか」と聞かれて「ハイ」と答えるのがちょっと嬉しいそうだ。

困ったことを尋ねると「虫」との答え。ムカデ、クモ、カミキリムシ、ゲジゲジ。最初は蚊帳を張って寝ていたという。
「それから買い物。特に重たいもの。最近はネットスーパーを活用しています。」
インターネットで注文した商品をバイクで坂の上まで届けてくれるので助かるのだそうだ。
「あとは…、街を歩いていたら、必ず知り合いに会うのが最初は面倒に感じていました。オンオフの切り替えがうまくできなかったので。今は慣れましたけどね。また、いいうわさ、悪いうわさもすぐに広がる、尾ひれもつく。良くも悪くも狭い街なので。」

印象的だった彼女の尾道での日常は、お店から気晴らしに坂を降りて海岸で夕日を眺めている時の話。
「座っていると観光客だと思って地元の人が声かけてくるんですよ、ここの夕暮れはいいぞ、って。やっぱり尾道の人は尾道が大好きなんですね。」
静かな水面を反射する夕日は尾道人誰もが好きな風景だ。

移住を考えている人へ

「『人』と『家』の事前準備は絶対にした方がいいです。」少し強めに答えてくれた。
その他、アドバイスをもらえる人をつくることだそう。尾道にも色々な人や団体・グループがあるため、「自分に合っている」相手を見つけることは重要そうだ。

都心のようにインターネット上に多くの情報が掲載されていない地方では、人脈を利用することで物件情報も集める必要がある。空き家バンクに関連するNPOはその一つの手段でもある。
「SNSでつながることも必要ですけど、実際に来て会う、その場所に行ってみる、など、“場”の情報収集がとっても大切です。縁が増えるとうまくいくことも増えますよ。」
彼女から最初のご縁をいただくのもいいかもしれない。

(取材:平成28年12月)